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堤体のしくみ |
ため池は、上流側から集めた水を貯え、必要なときに下流側の田へ流します。
ため池は、水をせき止める堤体(ていたい)によって造られています。
堤体にはいろいろなしくみがあります。コンクリートがまだなかった時代には、木や石で洪水吐や取水施設が造られていました。
また、大きな機械がない時代には、すべて人の力で築かれました。
ため池の歴史はとても古く、稲作が行われるようになった弥生時代には、すでにため池が造られていたといわれています。古墳時代になって、古墳を造る技術がため池にも生かされるようになり、大きなため池が造られるようになりました。ひょうごでは675年、今から1300年以上前に造られたため池が最も古いと考えられています。天満大池の原型となった岡大池と呼ばれるため池です。天満大池はなんと1300年もの間、水をたたえ続け、現在もなお約200haの田をうるおしているのです。ため池が最もさかんに造られたのは、江戸時代です。
山の中にある大杣池のおかげで、ふもとの村はゆたかでありました。
しかし大雨が降りつづくと、しばしば池の土手が切れて、田畑は洗いけずられ、家も水につかり、数年の間はひどい暮らしがつづくのでした。
村人たちは、なんとかならないものかと何度も集まって相談しました。
「ひとつだけ方法はある……」
と村の老人が、いい伝えられてきた方法を口にしました。しかし、それは、切れた土手の底に赤牛を生きうめにして土をかけ、土手を築きなおすというむごい方法で、なかなか実行にうつされることはありませんでした。
ところが、たびたびの災害にうちひしがれていた村人たちは、ついに赤牛をいけにえにする決心をしたのでした。
くじ引きで選ばれた牛は、きれいに洗われ、飾りたてられ、最後においしいえさを与えられました。
かい主や村人にひかれて大杣池まで登り、太いクイにゆわえつけられ埋められていく牛は、ただただ「モーウ、モーウ」と鳴くだけでした。
ついに背中まで土に埋まった赤牛は、最後に首を高くあげて、力いっぱい「モーウ」と叫びました。
こうして土手は再建されましたが、人々の耳の奥には、いつまでも、最後の牛の叫び声が長く残ってひびいていました。
稲美町の蛸草村では、村人たちがため池の築造にかかっていました。しかし、せっかく築いた堤防が、どうしても水に流されて、ため池ができあがりません。
なすすべもないまま空しく十数年という月日が過ぎ去ったある日のこと、この村を開墾した藤原弥吉四郎の孫である光太衛の夢の中に一人の僧があらわれ、
「堤防を6枚屏風の形にし、北の山際に“うてみ(洪水吐)”を造るとよい。造っているときに、そこを一人の美女が通りかかるであろう。その女を人柱にすれば、きっとため池ができあがるであろう。」
と言いました。
光太衛は村人たちを集め、お告げの通り、池の築造を進めました。
すると、二十日ばかり過ぎた頃、お告げの通り、一人の美女が通りかかりました。村人たちは直ちに捕らえ、堤防の柱としたのでした。
その女の名を「お入」といったことから「入ヶ池」というようになったそうです。
ため池は田をうるおす水をためておくだけでなく、わたしたちにとって、いろいろな働きをしてくれる大切な宝物です。
ため池に住む生きもの |
ため池は人工的に築かれたものですが、長い年月を経る間に、ため池固有の自然環境がつくられてきました。そして、ため池を結ぶ水路や田んぼなどとあわせて、豊かな自然を育む重要な存在です。ため池には様々な植物や動物が生息しています。
水草、水生昆虫、魚類、水鳥など多くの生きものたちにとって、ため池は大切な生育・生息の場所となっています。
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